週末、実は店は暇だった。一日を通して特に商売になるような状況ではないので、別に店を開ける必要はなかったのだ。内海唯花が店に来たのは、静かにネットショップで売る商品を作ることができるからだ。そこへ牧野明凛もやってきた。内海唯花が店にいるのを見て、牧野明凛はとても驚いて言った。「唯花、今日は日曜日だよ。どうして来たの?いつもなら甥っ子を連れて公園に遊びに行ってるじゃない」「ネットショップに新しい商品を出さないといけないから」内海唯花は売る小物をハンドメイドしながら、頭を上げて親友に笑って言った。「あなたこそどうしたの?」「聞かないで。お母さんにぶつくさ言われて耐えられなかったから店まで来たんだから」「おばさん、どうしてまた?」「あの日の夜のパーティで私が高値の錦鯉のオスを釣れなかったこと責めてるんでしょ、どうせ。お母さんったら上流階級の御曹司が簡単に糸に引っかかるもんだと思ってるのよ。自分の娘がそれに見合うのかも考えないでさ。私を絶世の美女だとでも思っているのかしらね」内海唯花はぷっと吹き出しだ。世の中の親というものはだいたいこういうものだろう。娘が結婚適齢期になったら、娘の結婚という人生の一大イベントにやきもきし始めるのだ。二十五歳と聞くと親の世代は、女は二十五過ぎたらもう歳で、売れ残りというクリスマスケーキ理論を展開する。しかし今の時代、この年齢はまだまだ若いうちに分類されるのだ。「お母さんったら、おばさんが彼氏紹介してあげるっていうんで、今晩カフェにお見合いに行ってこいですって。夜にカフェでお見合いなんてさ、ほんとコーヒー一杯で朝までお見合いできそうよねぇ」「唯花、今晩ついて来てくれない?」内海唯花は首をでんでん太鼓のように横に振った。 「唯花ちゃーん、首を横じゃなくて縦に振ってよ。私たち親友でしょ、お・と・も・だ・ち!唯花が一番義理堅いんだから、友達のためなら命も惜しまないでしょ?」「私義理人情に厚い人間じゃないから。あなたのために命を差し出す人なら、他をあたってちょうだいな」牧野明凛はご機嫌取りにこう言った。「男の人とちょっと話したら、美味しいもの食べに連れてくからさぁ」「私お金には困ってないので。食べたかったら自分で行きますから、奢ってもらう必要なんてございません」内海唯花は親友と一
おばあさんは内海唯花のハンドメイドの作品をいくつも受け取っていた。 中には細部まで丁寧に作られており、本物の花に見間違うようなビーズ作品もあった。おばあさんはそれを家の目に付く場所に飾っていた。それがどれほど価値のあるものではなくても、孫息子の嫁からの心がこもった贈り物だ。お客さんが訪問した時に、それを見て内海唯花の器用さに感嘆していた。おばあさんはここぞとばかりに内海唯花の作品の販路拡大をしていたのだ。実はその人たちがみんな内海唯花のネットショップで購入していて、こっそり陰で内海唯花の売上に貢献していたのだ。「結城おばあさん、お水をどうぞ」牧野明凛はおばあさんに水を持ってきた。「ありがとう、お嬢さん。あなたも今日ここにいるのね」「ええ、母からしつこく結婚の催促をされてなければ、店に隠れに来たりしなかったんですけどね。いっつも私のお見合いを勝手に決めて、売れない商品扱いされてる気分ですよ。今晩もカフェに行ってお見合いして来いなんて言われちゃって。それで今唯花に一緒に来てもらえないか頼んでいたところなんです」おばあさんの瞳がきらりと光り、笑みを浮かべて言った。「私はお母様のお気持ちがわかりますよ。今理仁以外の孫たちの結婚に頭を悩まされているんですから。いくら言っても聞いてくれないし。あの子たちにお見合いに行かせようとしたけど、一人も行かないのよ」「唯花ちゃん、今晩このお嬢さんに付き添って行ってきたらどうかしら?」内海唯花「......」おばあさんはなんと彼女に明凛のお見合いに付き合うように助言してきた。「あなたとこのお嬢さんは親友なんでしょ。彼女が行くなら一緒にあなたも行って、彼女と一緒にお相手の方をしっかりと見て評価するのも良いことだわ。なんといってもあなたはもう経験者なんだから」牧野明凛は激しく頷き、おばあさんは天の助けだと思った。「唯花、一緒に来てよ。あなたが来ないなら私も行かない。代わりにお母さんをどうにか言いくるめてちょうだい。いっつもお見合いを勝手に計画しないでって」牧野明凛は内海唯花に甘えてきた。おばあさんはまた隣で悪事の手助けをし、内海唯花は静かになりたかったので、仕方がなく言った。「今回だけですからね、二度目は絶対にないわよ!」「やった、唯花ってやっぱり最高の友達だわ」牧野明凛は親友
おばあさんは笑って言った。「なんでそんなに及び腰になっているの?あなたたちはもう結婚して立派な夫婦なんだから。理仁から来ないっていうのなら、あなたから行かなくちゃ。おばあちゃんはひ孫の顔が見たいのよ」内海唯花は顔を赤く染めて言った。「おばあちゃん、これ言うと怒るかもしれないけど、おばあちゃんのお孫さんにあんなに厳しくて冷たい顔を向けられたら、キスすらできないわ」おばあさん「......」結城理仁のおじいさんは生まれつき厳しく冷たい人間だった。おばあさんが若い頃、おじいさんのことを気に入り、何年も彼のことを追いかけていた。あらゆる手を尽くし終えてようやく手に入れたのだ。「彼にキスするとしたら、まるで冷凍室で一年間凍らせた冷たくてカチカチの骨にキスするような感じよ。そのせいで歯が全部抜けたらどうしましょう」おばあさん「......」「おばあちゃん、私と理仁さんのこと、心配しないで。自然にまかせましょ」どうせ彼女もただルームメイトとして過ごすだけだ。おばあさんは心の中で拒否した。彼女が心配せずにいられるだろうか。この子はおばあさんのお気に入りの孫息子の嫁だ。二人の結婚話が出た時、彼女は孫娘の不満も考えていなかった。そして、全力で催促してこの結婚を成立させた張本人だ。もし内海唯花がこの結婚で不幸にでもなったら、彼女は死ぬまで自責の念に苛まれるだろう。「わかったわ。自然に任せましょう。ここはおばあちゃんが片付けとくから、自分のやることを優先してちょうだい」おばあさんは家でもじっとしていられない人だった。いつも庭師の手伝いをし草花を手入れしたりしていた。以前は琴ヶ丘邸の周辺にある田畑の手伝いまでしていた。息子や孫たちから言われてようやくそれをするのをやめたのだ。さらにまた自分の家の会社の掃除もしに行くつもりだったが、彼女がそう言うと結城理仁の顔は一瞬で雷様になってしまった。恐ろしくて彼女は行くに行けなくなってしまった。おばあさんが店に来て内海唯花とおしゃべりするのは今回が初めてのことではなかった。内海唯花もおばあさんが人生の大部分を苦労してきたことはわかっていた。だからじっとしてはいられないのだ。片付けなんて朝飯前だろう。それでおばあさんに本の片付けや整理をするのを任せて彼女は自分の仕事に集中した。ハタキを持って本棚にある本を
牧野明凛はもっと嬉しげに笑った。この話し方にユーモアがあるおばあさんが大好きだった。彼女はまだ結城理仁本人に会ったことがないが、親友からとても厳しくて冷たい人だと聞いていた。どうしてこんなにユーモア溢れるおばあさんからそのような孫が誕生したのだろうか。結城おばあさんとちっとも似ていないじゃないか。 すぐ結城辰巳がやって来た。 彼はお忍びで城下町まで遊びに来ていたお局様を迎えに来たのだ。このお局様はわざわざ彼に安い車で迎えに来るように伝えていた。 車庫にある一番安い車は使用人が買い物に行く用のBMWなのだが、それでも2000万はする車だった。新しいのを買いに行くのも間に合わないので、結城辰巳は庭師のピックアップトラックを借りるしかなく、その車でおばあさんを迎えに来た。 「義姉さん、ばあちゃんを迎えにきました」 結城辰巳は店に入ると内海唯花に挨拶した。 「ええ、気をつけてね。おばあちゃん、家に着いたらメッセージを送って」内海唯花はおばあさんと孫の二人によく言い聞かせた後、この日作った作品を二人に手渡した。彼女が結城辰巳に手渡したのは器用に作られた招き猫だった。 結城辰巳はそれを素直に受け取った。家でたくさん義姉の作品を見ていて、彼もとても楽しんでいたからだ。義姉の作るハンドメイドはそんなに高いものではないが、とてもきれいだと思っていた。 そしてすぐ結城辰巳はおばあさんを連れて帰っていった。 車が店から離れた後、おばあさんは二番目の孫に尋ねた。「この車どこで探してきたのよ?」 「田中さんがいつも肥料とか、鉢植えとか運ぶ時に使ってる車だよ。俺が借りてきたんだ。これなら義姉さんも何も疑わないだろ?」 一番上の兄が貧乏人を装っているので、彼らもそれに合わせて義姉の前では貧しいふりをしなければならなかったのだ。 しかし、これはこれで楽しかった。 結城辰巳はいつか兄が本気で義姉のことを好きになり、自分の正体を明かした時、義姉が騙されていたことを知ったら、どんな反応をするのか楽しみだった。 そうだ、実を言うと、彼は兄が彼女に振られ、彼女との関係を取り戻すのに必死になる姿を期待しているのだ。 「この車はやけに見覚えがあると思ったら、なるほど田中くんのだったのね」 おばあさんは携帯を取り出すと結城理仁に電話をかけた。 結
「あなたに何がわかるんだい?」このばあさんには計略があるのだ。結城辰巳はなにか悟って笑って言った。「ばあちゃん、また兄さんにドッキリを仕掛けるつもりなの?」おばあさんは横目で彼をチラリと見て言った。「これ以上無駄口を叩くなら、あんたに仕掛けるわよ」結城辰巳はすぐに黙りこくった。彼は兄に同情していたが、自分に災いが降りかからないように、やはり余計なことには口を挟まないほうがいいのだ。自分が死ぬより兄が死んだほうがよっぽど良いだろう。おばあさんは年を取ったいたずらっ子だ。子供心が非常に強い人で、自分の孫たちをつかまえて練習台にするのを楽しんでいた。一方、内海唯花は本屋を閉めて、親友からヘルメットを受け取って被り、車の鍵を取って言った。「私が運転する!」牧野明凛は大人しく後ろに座り、とても自然に内海唯花の腰に手を回して言った。「唯花、あなたが男なら良かったのに。それなら私あなたのところにお嫁に行くわ。それならお母さんから毎日毎日結婚の催促なんてされなくて済むのに」「大人しくしてて、勝手に触っちゃダメよ。あなたをバイクから振り落としちゃうかもしれないわよ!」内海唯花は親友にそう注意してから、バイクのエンジンをかけ、運転した。カフェ・ルナカルドなら内海唯花はよくその前を通っていたが、一度も店に入ったことはなかった。ただ彼女はコーヒーが嫌いだからだ。好きなのは薔薇茶か菊花茶だ。カフェ・ルナカルドに到着すると、お見合い相手はすでに店に来ていた。おそらく女性に好印象を与えるためだろう。男性はスーツに革靴スタイルで紅白ストライプのネクタイをつけていた。手には薔薇の花束を持って入口で待っていた。牧野明凛は親友の手を引っ張り彼のほうに向かって歩いていった。「すみません、河西さんですか?」 河西は牧野明凛と内海唯花を上から下までじろじろ眺め、はじめ彼の今晩のお見合い相手がどちらなのかよくわからなかった。紹介してくれた人はお見合い相手の写真を彼に見せてくれていた。彼はその写真を適当にチラッと見て、女性がとてもきれいだということだけ確認すると、あとは牧野嬢がどのような顔をしているのかまではよく覚えていなかった。紹介した人が彼に薔薇の花束を持って入口で待つように伝えていたので、牧野はお見合い相手が彼だとすぐにわかったのだ。「あな
「牧野さん、もっとゆっくりしていってくださいよ」河西は優越感に浸り、それを見せつけるのに力を入れているところなのだ。今牧野明凛を帰すなんてそんなもったいないことはしたくなかった。「河西さん、すみません、私たち合わないと思います。今後会うこともないでしょう」牧野明凛は直球ストレートで彼に投げつけると、内海唯花の手を引いて去っていった。歩いていると、親友が突然立ち止まって動かなかった。「唯花、どうしたの?」「私の夫だ」「はあ?」牧野明凛がまだそれに反応する前に結城理仁が二人の前に現れた。彼は深く沈んだ漆黒の瞳を内海唯花に落とした。口角を少し上げて何も言わなかった。しかし、内海唯花には彼から漂ってくる皮肉を感じ取っていた。なにを皮肉っているのだろうか?内海唯花は後ろを振り向き追ってきている河西を見てすぐに理解した。彼女はどういうことなのか説明した。「私の友達の明凛がお見合いに来たんです。私は彼女に付き添って来ただけですよ」彼女は別に焦って次を探しに来たわけではなかった。しかし結城理仁は依然として沈黙を保っていた。牧野明凛はここにきてやっと親友のスピード結婚の相手に会うことができた。超クールでカッコイイ!彼女は結城理仁が唯花のことを誤解しないように、事のいきさつを説明した。結城理仁はようやく口を開き冷たく言った。「さっさと家に帰れ」内海唯花は一言「うん」と言って彼に尋ねた。「あなたはどうしてここに?」「ばあちゃんがこの店の菓子を買ってこいと言ってきたんだ。ここのが好きだからな」結城理仁はおばあさんがわざとしたことだとわかった。内海唯花が親友のお見合いに付き添って来ることを知って、わざわざ彼にお菓子を買いに行かせたのだ。内海唯花が他の男と一緒にコーヒーを飲んでいるのを目撃し、孫息子がヤキモチをやくと思ったのだろう。「ああ」内海唯花は簡単にそれに答えると、夫婦はお互い黙ってしまった。結局内海唯花がこの膠着状態を打開して言った。「じゃあ私先に帰ります。おばあちゃんにお菓子を買って持っていてあげてください。ドアはロックしないでおきますから」結城理仁は低く冷たい声で答えて言った。「わかった」夫婦二人はこのようにして分かれた。内海唯花は親友のバイクに乗ってこの店を離れた。結城理仁はお菓子
内海唯花は結城理仁とおばあさんが一体何を話したのかわからなかった。カフェ・ルナカルドで結城理仁に偶然出くわしたことは、最初彼女にとって意外なことだった。しかし、おばあさんが牧野明凛のお見合いに付き添うように言ったことをこれと連想されると、内海唯花は結城理仁がどうしてあの場に現れたのか納得した。でも、おばあさんはどうしてこのようなことをしたのだろうか。結城理仁に誤解させるため?お見合いに行ったのは彼女ではなく、明凛だ。結城理仁があれを目撃したからといって別に......さっきカフェで結城理仁を見た時、結城理仁の表情はいつもよりもさらに霜焼けするほど冷たかった。内海唯花がいくら鈍くても、結城理仁があの時勘違いしたことはわかった。あの時、明凛がお手洗いに行っていて、彼女だけが河西と一緒に座っていたからだ。結局は明凛が戻ってきたので事なきを得た。彼女がすぐさま経緯を説明したので、結城理仁の顔つきは少し和らいだ。内海唯花はただどうしておばあさんが、このようなことをしたのかが理解できなかった。彼女はおばあさんを助けたことはあっても、恩着せがましいことは何もしたことはなかった。おばあさんはずっと彼女を恩人だと言って、いつも彼女によくしてくれた。道理から言えば、彼女をはめるようなことはしないはずだ。どういうことなのか頭で考えを巡らしながら内海唯花は家に帰ると、すぐベランダに行きハンモックチェアに腰掛けた。電気もつけずに外の夜空を静かに眺めていた。結城理仁はというと深夜にやっと帰ってきた。彼が帰ってきた時、内海唯花は夢の中だった。彼女はハンモックチェアでそのまま寝てしまった。結城理仁はそれを全く知らずに内海唯花の部屋のドアが閉まり、明かりも消えていたことから、彼女はもう寝てしまったのだと思った。そしてソファに座りテレビをつけた。彼がテレビを見るのは珍しいことだったが、家の中が静かすぎると思いテレビをつけたのだ。音量は一番小さくしていた。部屋で寝ている内海唯花を起こすと悪いと思ったからだ。「リンリンリン......」携帯が鳴った。表示された相手を見ると、辰巳からだった。「辰巳」「兄さん、大丈夫か?」結城辰巳は電話の中で心配して尋ねた。結城理仁は黙った後、彼に聞いた。「おまえ、ばあちゃんが俺をはめるって知ってたのか」
結城理仁は、おばあさんが彼に送ってきた動画のことを思い出した。内海唯花が熱心にハンドメイド作品を作っている姿はとても魅力的だった。彼は自分が何回も繰り返しその動画を見たことを認めたくなかった。しかし、心の中では認めざるを得なかった。一つのことに集中し自信満々の様子の女性。周りを魅了するその風格。まるで巨大磁石のように、人の目を引きつける人物だ。人は言う。自信のある女性が最も美しいと。内海唯花からは確かに自信が垣間見れた。彼女は粘り強く、自ら努力して向上する女性だ。「俺はこの歳になってもそのヤキモチをやいたことがない人間だぞ。これからもそれは変わらな......、まだ寝てなかったのか?」結城理仁は内海唯花がベランダからやってくるのを見て、少し驚いた。それに結城辰巳は答えて言った。「寝るとこだよ。寝る前に兄さんのこと思い出して電話したんだ。もうちょっとしたら寝るよ」結城理仁は電話を切った。結城辰巳「......」「ベランダに座ってたんです。そしたらいつの間にか寝ちゃってて。あなたが電話してる声で目が覚めたんです」結城理仁は額にしわを寄せて言った。「夜の風は冷たい。体を冷やさないようにしろよ」「心配してくれてありがとう」内海唯花はあくびをした。「結城さん、私先に寝ますね」結城理仁に今晩の出来事について、特になにも話さなかった。結城理仁は何も言わず、彼女の部屋を見ていた。彼女に彼と結城辰巳の話が聞こえていたかよくわからなかったし、聞こえていたとして、どこからどこまで聞いていたのだろうか。ああ、自分のテリトリーに妻という人間が増え、結城理仁は私生活のプライバシーがなくなってしまったと思った。次の日、朝食の時間、結城理仁は内海唯花がどれだけの話を聞いていたのかよくわかった。なぜなら彼の朝食の横には焼き餅が置いてあったからだ。内海唯花は朝食に豚汁を作っていた。夫婦それぞれ一杯ずつで、おにぎりと目玉焼きもあった。お椀の中には刻みネギや、ミツバ、豚肉も入っていた。内海唯花はキッチンから柚子胡椒の瓶を持ってきて、蓋を開け、箸で少しつまんで豚汁の中に入れた。そして、その柚子胡椒の瓶を結城理仁の前に差し出して言った。「少し入れますか?これを入れたらもっと美味しくなるんですよ」「遠慮しておく、ありがと
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら